あの日、彼らは生きていた〜ハイステ感想〜
※ハイパープロジェクション演劇 ハイキュー!! 最強の場所 TDC公演 を観劇した感想をつらつら綴ります。
※ネタバレ含みます!注意!!!
※イチオタクの(ふざけてはいませんが)戯れ言と思い大目に見てください。
あの日、彼らは一枚の板の上、
約3時間10分、
一瞬一瞬を、生きていた。
眩しく、きらきらと。
笑顔も涙も携えて、
あたかも本物のように、
現実のこの世界に、
生きていた。
これが2.5次元ということの、謂れなのだろう。
今回初めて「ハイステ」という舞台を観劇した。実際行くまでは、「2次元原作の舞台、、2.5次元ってやつか、、どうなんだろう?高評価しているのはオタクのみなさんだけなのではないのか?」なんて思っていた。
今となっては観劇前までの自分を殴りたい。殴ってやりたい。
私はアイドル、バンド、わりとフッ軽で色んなライブへと年間何度も足を運んでいる。好きなアーティストであれば同じものを何回も観に行くことなど当たり前だった。
だけれど、本当に心を奪われる公演は数少なく、ライブに行き、虚無感や喪失感のようなものに苛まれることは早々なかった。自分も歳を重ねたからかなと思っていた。
だが、ハイステはその年齢理論を覆してしまった。
ハイステ観劇から1週間が経つが、未だにあの情熱が、感動が、私の中に燻っていた。
夜思い出して涙を流せるほどに、胸を打った。
本気で、もう一度観たいと思ってしまった。
ドラマや映画の実写化をみて、どの役者もキャラクターにぴったり!なんて思った作品もなければ、感動することも、再現度に衝撃を受けることもなかった。作り変えられる設定やエピソードにうんざりする中で、ハイキューの舞台化は私の今までの常識的な部分を全部一気に塗り替えてしまった。
これは、1週間前にハイステを観劇した私の感想文である。主観で全てを綴っていくので異論は認めない。
(正直、初めての観劇で、内容も事細かな部分も覚えておらず、淡い残像として、頭に残っている程度で、その残像をつらつら綴っている。あまり、面白みのない文章が続くので読み流してほしい)
ここまでが前置きである。
1.
基本、約2時間〜3時間のライブを観にいくと、私には途中で考え事を始めてしまうタイムが訪れる。「ハイステは公演時間3時間か〜長いな〜飽きないかな〜トイレ心配だな〜」そう思いながら始まる舞台。
正直席が良かったのも相まって、じわじわ期待感は膨らみつつあった。それでも3時間は持たない気がしていた。
なのに、
開始5秒、いや3秒で、私はその世界に引き摺り込まれていた。
すんっと、客席全員が、舞台上からじわじわ迫る気配に飲み込まれてゆく、そんな空気を感じた。
気づけば、余計なことを考える時間なんてなく、夢中で3時間、舞台に食いついていた。
初っ端感じたのは、
アニメの声優陣と声が似ている!
ということだった。
アニメと漫画がほぼ同時期履修だった私にとって、アニメの声はキャラのイメージになっていた。正直、大地さんが喋っているのをみて、日野さんが声をあてているのだと本気で思った。それくらい似ていた。
影山も、月島も、潔子さんも、旭さんも、田中も、及川も、みんな、みんな、声がまず似ていた。
そして、それは声だけではないことを舞台を通してひしひしと感じた。
漫画に生まれたキャラクターたちが、ただの役ではなく、キャラクターが3次元に生きている。
彼らが、烏野のみんなが、そこに生きている。
心から感じた。
びっくりした。
涙が出た。
喋り方も、表情も、歩き方も立ち方までも、全部がキャラクターそのものだった。目の前に烏野のみんなが生きていると錯覚した。
それは、セリフがある場面に限らずだった。漫画では一コマの中で、アニメでは映っている映像の中で、そこに描かれるキャラクターはもちろんセリフを喋るが、それ以外のキャラクターは漫画アニメでは描かれない。
だが、舞台となると、その描かれないキャラクターは静止するわけにはいかない。舞台に行くまで私はそこに関してなにも考えていなかった。
実際に舞台上では、青城、白鳥沢にスポットが当たるシーンで反対側にいる烏野は各々、動き、そして喋る。反対でもそうだし、身内の中でもそう。応援席も静止はしない。
現実世界で当たり前のことだが、原作にないキャラクターたちの動きが舞台上で初めて起こる。
その一瞬一瞬が、まさしくキャラクターたちそのものであった。
違和感なんて一つもなくて、
毎秒、一瞬たりとも、彼らが彼らで無くなる瞬間なんてなくて、そこに、日向翔陽は存在していた。澤村大地は存在していた。田中龍之介は存在していた。(以下略)
その瞬間を生きる、男子バレー部に所属するDKがいたのだ。
とにかくその舞台上起きているのは本当のハイキューの世界の時間だった。
ハイキューのキャラクターたちは、
あの日、あの場所で、
息をしていた。
誰も一度も役をやめることなどなく、
3時間10分、彼らは生きていた。
2.
先述の通り、初めてのことばかりで、圧倒され、怒涛の3時間で、正直詳しく覚えていない。勢いで3時間過ごしてしまった。
ここからは印象深かったことを思い出した順番に書き連ねていく。本当のネタバレ。
まず、私はずっと烏野3年生を推している。その推している感情も相まって、一番泣きそうになったのは3年生の回想シーンだ。もちろん、「好きなシーン」という括りにすればたくさんある。それは後ほど。
場面が切り替わり、赤いジャージの3人が私の目にうつり、その瞬間に胸の奥から熱いものが込み上げた。彼らの3年までの道のりを想って。
特に、足につるが絡んでいくシーンをどう表現するんだろう、と気になっていた。漫画アニメだから違和感のない表現、と思っていた。
だが、役者たちの演技はすごかった。
「春高に行った烏野」を夢見てキラキラの目で入部する。烏野の現状をみてギャップをじわじわと感じる。憧れを抱えながらも現状を理解した彼らの、足につるが絡んでいくようなあの感覚を、動きも、表情も、全てで再現していた。必死に生きる彼らの姿に、私は胸が締め付けられた。
私のイメージしていた清水潔子は、ざっくりとだが入部時は流されるように入部していくものだった。だが、舞台で役者さんは力強く、なにかを決意し覚悟した表情で入部シーンを演じた。もともと口数の少ない彼女の、心の奥底の想いや、緊張や、そんな色んな気持ちを織り交ぜた表情、表現にみえた。
ハイステを通して面白かったのは、自分の解釈、アニメで声優さんによる解釈、そして舞台役者による解釈、それぞれが違う瞬間があること、そういう部分もある。
他の人にはこういう解釈だったんだな、っていうのもまた面白かった。
アニメのイメージが強いシーンなどで、セリフのトーンや強弱が違うなども興味深いのだ。
強烈なインパクトが未だに頭に染み付いているのは、一幕ラスト、白鳥沢登場のシーン。舞台真ん中から左右に開かれるセットから、煙に巻かれ、横一列に並んだ白鳥沢御一行が姿をあらわす。自然と鳥肌が立った。震えた。
ーーーー「王者」の風格。
牛島若利のどしっとした構えと天童覚の狂気を纏う佇まい。
ビリビリと痺れた。原作で特に天童は奇妙なキャラクターで「これを演じるってどうなの?」と、思っていた。蓋をあけると本物の天童覚がそこにいた。立ち方、振る舞い、表情、ひとつひとつが天童だった。二幕の入場時、私の横を白鳥沢の面々が通っていったのだが、私は初めて人に対して狂気を感じた。こわい、気味が悪いと思った。それだけリアルな天童覚がそこにいたということだ。
「役を演じる」ということが私には分からなかった。演技が分からなかった。なりきるって何なのだろうか。普段、ドラマや映画を見ながら、「この人演技うまいな〜こいつは演技が下手だな〜」その程度の感想しか持たず、それ以上を考えることはなかった。考えたくなるキッカケもなかった。
だけれど、ハイステを観劇して、「キャラクターが生きている」と感じてから、その所以を考え始めた。
舞台においての上手いか下手かは正直分からない。専門家みたいなコメントもできないし、単なるオタクの想像の話だが、とにかくハイステにおいてキャラクターたちがリアルに見えたのは、役者さんたちがどこまで作品を自分の中に落とし込んでいるか、の様な気がした。
原作が少年漫画ということもあり、元々原作を知っていた役者もいるであろう。どちらにせよ、私は役者全員が、この舞台のために原作を何度も何度も何度も、読み、考えたと断言する。だって、きっと一回やそっと読んだくらいでは「彼ら」にはなれない、あそこまでキャラクターには見えないから。
読者の視点で読み、作品を見つめ、キャラクターを知り、演じるキャラクターを理解し、感情や表情までも理解する。全てを自分の言葉で解釈する。「演じる」のは表情と動きと言葉、それだけに見えるけれど、その奥には役者の突き詰めたキャラクターの思考があり、感情がある。役者はきっとこのキャラはこの場面でこう考えるだろう、そしてこう思って、こんなことをするだろう、っていうのが分かっている。
キャラクターたちが息をしていた、そんな風に感じたのは、目に見える部分だけじゃなく、中の部分までキャラクターになったいたからだ。
だから、あの違和感のないハイキューの世界が作られていたのだ。
演じているとかなりきるとか、そういうレベルでなくて、もうあの舞台上においては役者=キャラクター、なのだ。そんな風にしか見えなかった。
そしてそこには、演者がキャラクターを愛している、愛情も乗算されていると感じた。
ただキャラクターを、作品を、分かっているだけでは出来ないものが、そこにはあったのだ。
表情や感情だけじゃない、雰囲気までも。
役者それぞれって訳ではなく、彼ら一人一人が咀嚼し披露した時に、歯車が噛み合って、成された世界なのだろう。
元々原作で好きだったシーンは上げればキリがなく、その場面毎に、「さて、舞台でどこまで忠実に再現されるのだろう。むしろ舞台で私感動するのか?」なんて自分で前振りをしながら舞台を眺めていた。本当に舞台を舐めていた自分を殴りたい。
どの好きな場面も期待を裏切ることはなかった。
(パッと思いつくシーンの抜粋だが、)青城戦で及川が岩泉を指差してトスを上げるシーンのあの臨場感も、青城戦の忠がピンチサーバーとして活躍する感動とチームの高揚感も、白鳥沢戦での月島のバレーにハマる瞬間の興奮と感動も、牛島が烏野チームをおさえつけるあのシーンも、、
とにかくあげたらキリのない、ハイキューにある沢山の胸が熱くなるシーンが、そのままの景色で再現されていた。なんなら2.5次元というアニメや漫画より多くの情報がある舞台では、もっと興奮を掻き立てていた気もする。
音楽、舞台演出、役者の吐息すら、構成要素であり、観客の五感を通して心をガッと掴んでくる。3時間を通して、私はそんな状態であった。
あたかも、作品の中にいるようだった。
彼らと同じ時間、同じ空間を共有しているようだった。
気づけば涙で視界が滲み、だが1秒たりとも見逃したくない自分は必死で涙をひっこめた。ライブでも卒業式でもすぐに泣く自分が、絶対見逃してはいけない1秒も無駄にしてはいけない、と本能で悟っていた気がした。それだけ引き込まれていた。
3.
先述の通り、ぶっちゃけ圧巻の3時間で、ほぼほぼ記憶にない。頭にあるのは衝撃的だった、興奮が冷めやらない、そんな感想と、
キラキラと、眩しく、その瞬間を生きているハイキューの彼らの姿だけ。
私は、そんな頼りのない記憶だけで1週間以上も胸を焦がす想い、切ないような苦しような、そしてふとした時に舞台のことを考える、恋のような症状を発症している。
この感動や情熱を、胸に燻らせ、果たしてどこにやればいいのか、共感する同志を求む。
そして、ハイキュー!!作品に関わる全ての人類に感謝を申し上げると共に、
「ハイパープロジェクション演劇ハイキュー!!最強の場所」が、TDC公演を無事に終えたことへのおめでとうと、
これから始まる地方公演、東京凱旋公演と、そしてきたる大千秋楽まで何事もなく、無事に、役者様、スタッフ様、全ての人が笑顔で走り切れることを心よりお祈り致します。
陰ながら見届けたい。
大千秋楽ライビュ応募しよう。
ここまで読み切った方へ
内容のない感想文を、ご精読ありがとうございました。
では、皆さんに幸あれ。